vol.14 なぜ、小さな琉球王国が生まれたのでしょうか?
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外国の最新情報を手に入れ、時代を読んだウチナーンチュ
一三六八年、中国に明という漢民族の王朝が誕生します。その前の元王朝は、北方民族のモンゴル人が作った国で、約百年間つづいていました。中国は、北方の民族と中央の漢民族とのあいだでくりかえされた、はてしない戦いの歴史を持った国です。明王朝は、漢民族が世界の中心であるという中華(中夏)思想のもとに、周囲の国々をしたがえようと考えました。
明の皇帝は、中国に貢ぎ物を持って挨拶にくる国に対して、国王の役目と位をさずける「冊封」というシステムをつくりだしました。明皇帝は、日本、高麗(朝鮮半島)、東南アジアなど、周辺の国々に冊封を受け入れるように使いを出します。当時、太宰府をおさめていた後醍醐天皇の息子、懐良親王は明王朝の要請を断わっています。この時の中国の使者、揚載は、一三七二年、沖縄島をおとずれ浦添国王の察度に冊封をすすめました。察度は、大国・中国と争いをおこさず、友好的に先進国中国の文化と文明をとりいれる方法をえらび、冊封の制度をうけいれました。
冊封は、中国に貢ぎ物を届ける朝貢・進貢という役割をともないます。沖縄からの第一回の進貢品の中には、象牙、胡椒、瑪瑙といった東南アジアの特産品がふくまれていました。これは、察度がすでに東南アジアと交易をはじめていたことをものがたっています。さらに、交易を通じて、東南アジアや、外国の最新の情報を手に入れ、中国・明王朝の国力、国策を正確に判断していたことになります。もっとも、冊封をうけいれる六〇年前、一三一七年に、宮古島の島民がシンガポールに航海していたことをみると、ウチナーンチュは、私たちの想像をこえる、はるか昔の時代から自由に外国と交流をしていたことがわかります。
沖縄は進貢品とひきかえに、中国からは、国の行事の基準としてなくてはならない暦、最新の絹織物などの貴重品をたまわっています。また、明王朝から琉球という国名をもらい、小さな王国としてみとめられたわけです。 |
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