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vol.13 琉球の歴史と自然のエネルギーとはどんなつながりがあったのでしょう?

季節風(ミーニシとハエ)をたくみに使い、アジアをかけめぐったウチナーンチュ

 琉球王国の人々は、毎年旧暦の十月以降、台風シーズンが過ぎ去ったあと、新北風(ミーニシ)が吹きはじめる頃に進貢船をしたてて中国、東南アジア、などへと船出しました。ミーニシに乗って、サシバなどの渡り鳥も南下してきます。進貢船は、中国への貢ぎ物を運んだり、アジア各国のめずらしい品物をつみこんで航海したために宝船とも呼ばれていました。人々は、那覇港から慶良間諸島を経由して、一路、久米島へと船を進めました。なぜ、中国などへ那覇から直接向かわなかったのでしょうか?その理由は、那覇から直接に南へ向かうと、とちゅうで黒潮の流れにつかまり、進貢船は行き先の分からない漂流船となってしまうからでした。十四〜十九世紀の王朝時代、漂流船の件数は、のべにすると百件以上にものぼります。ときには朝鮮半島の済州島や、四国の沖、さらには千葉県から宮城県の沖合まで、黒潮の本流や支流の流れに沿って流されてしまうのです。江戸時 代に千葉県沖までながされた進貢船のなかからは、サンシンなどの音楽が聞こえたとも伝えられています。ものごとにあわてない、海の民として生きていたウチナーンチュのゆとりさえ感じられます。
 久米島へ渡った進貢船は、兼城の港で停泊し「風待ち」をします。強いミーニシをとらえて、久米島の目の前を走る黒潮を、風の力でいっきに乗りきるためなのです。ミーニシは、さえぎるもののない海上では、風速七〜十メートルの強風となります。南へ吹き下ろすミーニシを利用して黒潮を乗りきった進貢船は、福州へと向かいます。一日平均、百キロほどの速さで、那覇、福州間約、八百キロを八〜十日間ほどで航海していました。琉球へ帰るときは、翌年、清明(シーミー)の後のうりずんの季節の頃、南から北へ吹き上げる、南風(はえ)とよばれる季節風と、黒潮の流れにのって進貢船を走らせるのです。ウチナーンチュは、エンジンのない時代、潮と風を読む知識をたくわえ、自然の力を最大限に活用してアジアをかけめぐっていたわけです

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