vol.10 沖縄の貝ガラの腕輪がなぜ、2000年以上前の佐賀県の遺跡から見つかるのでしょうか? |
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荒波を渡ったウチナーンチュ
佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、二三〇〇年前から一七〇〇年前の弥生時代の集落遺跡です。これまで発見された遺跡では、日本での最大規模の集落跡です。そのころは、朝鮮半島から渡ってきた稲作を中心とした文化が生まれた時で、村というまとまりから国という仕組みへ大きく発展していく時代です。すでに大正一四年(一九二五)に、この遺跡があることが知られており、昭和六一年から三年がかりで発掘されました。当時、まぼろしの邪馬台国は吉野ヶ里遺跡であるという話題にもなりました。吉野ヶ里遺跡の貴重な価値は、国にも認められ、現在、海洋博記念公園と同じ国営公園として国土交通省が管理しています。
この遺跡からは、宮殿、祭殿、敵を見張るヤグラ、倉庫、市場跡、さらに広い所で巾六.五〜一〇メートル、深さ三〜四メートルもある大環濠(ホリ)、むかしの沖縄でも見られる高倉、水田跡、お墓跡などが発見されています。また、今帰仁城の石垣づくりに使われた版築とよばれる中国の建築技術も吉野ヶ里遺跡に使われています。この遺跡でとくに目につくのは、「かめ棺」にほうむられた渡来系の弥生人の男性です。その腕からは、沖縄近海でしかとれないゴホウラの貝でできた十個以上の腕輪が発見されています。この腕輪は、身分のある特別の人だけがつけるものでした。この発見は、沖縄と吉野ヶ里遺跡の人々が、交流していたことを物語るものです。
二〇〇〇年以上前、沖縄と九州は、「貝の道」という文化を運ぶ海の道でむすばれていたことが、最近わかってきました。伊江島、慶良間諸島、恩納村、浦添市などからゴホウラ貝の腕輪に関する遺跡が発見されています。弥生時代、私達の祖先は、ゴホウラ貝、イモ貝、オオツタノハ貝などで腕輪を作り、九州までわたる舟もつくり、荒波をのりきる技術をもっていたわけです。ウチナーンチュは九州で、沖縄産の腕輪と米、酒、鉄のオノなどをつめた壺と交換して沖縄に持ち帰り、独自の文化を生み出していたことになります。 |
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