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vol.5 「琉球」と「沖縄」はどうちがうのか?(2)

「沖縄」の名前は、いつ頃生まれたのか?

 沖縄は、方言で「ウチナー」と言います。四年毎に、海外にいる沖縄系移住者を沖縄県に招聘(しょうへい)して、国際イベント「世界のウチナーンチュ大会」が開催されていますが、私達は、ウチナーンチュと呼ばれることにあまり抵抗を感じません。それは、ウチナーというのが私達の祖先が自ら作り出した名前だからです
ウチはインドネシアの言葉で「大きい」、ナーは「漁場」を意味していると言われています。ウチナーとは、豊かな大きい漁場を表しています。ウチナーンチュの祖先達が、漁業文化を基盤とする生活をしていた海洋民族であることがわかります。
名護のナも、ウチナーのナと同じ意味で、名古屋のナも、漁場を意味する言葉と考えられます。那覇もナバが変化したという説もあります。琉球の名前が生まれる以前から沖縄の人達は、ウチナーという名を使用していたと思われます
七一四年、大和朝廷の使いが、球美(久米島)、信覚(石垣島)、奄美の人達を京都に連れていったことが「続日本紀」に書かれています。七五三年には唐(中国)の僧、鑑真和上が日本に渡る途中、阿児奈波島(沖縄島)に漂着したことが記録されています。
また、平家物語にも「おきなは」の名が登場します。おそらく、日宋貿易の南海航路として沖縄を経由したコースがあり、平家一門は南海の琉球国の情報を既につかんでいたと見えます。
江戸時代、琉球国は新国王即位の感謝と報告のためや、また徳川幕府の新将軍即位祝いの挨拶のために「江戸上り」を実施していました。この国家イベントは総勢百名、往復に一年近くかかるという一大行事でした。さらに、団員として、当時の琉球国を代表する文化人達もこぞって参加するほどの内容でした。
一七一九年、日本の一流の学者、新井白石、室鳩巣たちは、江戸上りに参加した名護親方、組踊り作者・玉城朝薫など、琉球を代表する文化人と交流し、外国の知識を吸収したと言われます。当時、日本国は外国との交流を禁じていたため、江戸の学者たちは、琉球や長崎を通じて外国のことを学んでいたわけです。
新井白石は沖縄のことも深く研究し、「南島志」という本を著しました。新井白石は、この本の中で初めて「沖縄」という漢字を用いました。その後、日本国側からは「沖縄」の名前で呼ばれるようになり、明治初めの廃藩置県の際、現在の沖縄県が生まれました。私たちは、歴史の中で「琉球」「ウチナー」「沖縄」という、三つの名前を持っていたことになります。

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